沼。

「一昨年の修士卒業生3人のうち、1人の実験ノートは、一冊まるごと抜けている」

その話を聞いたのは、修士で姉さんが入ってきて間もない時。本人が都合の悪いデータを見せたくないため、又は何かをねつ造したため、意図的に残さなかったのだろう。

直感的に、姉さんはこの研究室の研究体制を疑った。直感といえども、それは「研究内容がマニアックなため、本当に興味を持った学生しか入って来ない傾向にある」という事実を元にした推測も入っていたのだが。やる気を持って入ってきた学生が、卒業するために、ねつ造(完璧なねつ造でないものも含む)の道を選択するというのは・・・本人にとって、精神的にかなりの痛手のはずだからだ。そして、その選択は最終手段であるはずだからだ。

別研究グループのKにそんな話をしたことがある。「そのヒトだけ、魔が差してしまったんじゃないか。そういう学生は、どの研究室でもたまにいる」彼にとってはとるに足らない出来事のようだった。姉さんにとって、その返答は満足いかないもので、そのまま暫く考えていた。そのうち、Kが言った通りなのかも知れないと思い、忘れることにした。今は、Kの研究グループがIグループと研究室という空間を共有しているだけで、異世界に存在することが分かっているため、Kにはそのような返答をしたことが理解できるのだが。

*この研究室には、Kの研究グループと、姉さんの属す研究グループ(Iとする)が存在する。研究内容は全く別。


そう、姉さんは暫く忘れていた。姉さんのプロジェクトの前任者が、結果を摩り替えていたことに気が付くまでは。

その、前任者は、極めてマメで、真面目なヒトだった。会ったことはないが、彼女のノートのとり方や、入学後にとある賞をもらっていることから分かる。その彼女が、最後の最後で結果を摩り替えていた。

最後の最後で、擬陽性の出やすい細胞株に切り替えたり、それで得られたカラの細胞を安定株と称して残して行ったり。結局採れなかったコンストラクトのサンプルは、上手くいったコンストラクトのサンプルに置き換わっていた。

姉さんはそれらの残されたサンプルを解析しなければならなかったのだ。災難。しかし、これは彼女が起こした災難ではない。それが、今の姉さんには分かる。自分を含め、Iグループのメンバーは全員、実験自体が上手くいっていない。皆、面白いように同じレベルで止まっている。

ネガティブデータが出せる人間は、ネガティブなものをポジティブなものとして解析し、時にはpublishする。ネガティブデータすら得られない、となってしまうヒトは、データを摩り替えたり、ねつ造してなんとか卒業する。これが、ポスドク、博士、修士関係なく行われている。後任者は、訳の分からなくなったプロジェクトをそのまま引き継ぐ。それをこれまで繰り返してきたのだろう。そこからは、何の発展もない。確実に、あの実験ノートの件もそこに端を発している。

根は深い。

常識的には、研究していればネガティブデータは出るし、それをネガティブなものとして提示して、考察して、最終的にポジティブな結果を出すための材料にしていくのが普通だが・・・

姉さんが見る限り、Iグループにはそのような道を通ったプロジェクトはない。

セミナーでも、結果ばかりが重視され、いかにしてそこに辿りついたか、というようなことは見過ごされている。実験の過程について、されるべき指摘がされない。飛んでくるのは、指摘ではなく、「その結果はおかしいんじゃないの」程度の、ヤジのようなもの。セミナー以外にも、ボスに研究報告をするチャンスはあるが、アドバイスを貰ったことはない。「研究テーマが多様だから、全てはやっている本人にしか分からない」なんて、唯の言い訳に過ぎない。分野が異なっても指摘できるような、超基本的なことまで見過ごしているのだから。

ポスドク達のレベルも相当低いので、Iグループに入ってくる学生は結局、何か実験をやってみて上手くいかなかった際に、軌道修正するヒントが得られないのである。外部の研究室を訪ねることも許されず、その上、運が悪いことに、この研究分野自体が日本においてはかなり内向き。

マイナーな理学系の研究って、下手するとこういう閉鎖的なグループでのみ行われて、実は変なことしてても他の分野からは気付かれない、なんてことがあるのではないかな。

Iグループに入った学生たちが次々と如何わしいことをするのには、理由があるわけだ。「魔が差した」訳ではなく、この異常空間を抜け出るために、おそらく半脱力状態で、仕方なく意志に反したことを行ったのだ。

姉さんもその延長線上にいる。一人でその状況に立ち向かうのが、可能かどうかは分からない。このプロジェクト自体、前任者も姉さんも真面目に取り組んできたが、元はと言えば、ボスやポスドクが脈絡なく立ちあげたもので、「なぜこの実験をするのに、この配列を選んで合成したのか」というような、答えがあって良いはずのところに、答えが見つからない。実験系を立ち上げる初期に「何を何のために行った」という手の記録もないので、実験が上手くいかなかった際に、原因を見つけに戻れるポイントもない。

始めからこんなことになるのが分かっていれば、実験系の立ち上げを全てやり直せば良かった。頑張れば一年目に完成できただろう。しかし、あのノートの件からここまで気が付くことはできなかった。

気付けば修士で実験できる期間も終わりに近い。

結局試行錯誤して条件を変えて実験を行ってきた。それでも中々結果は出ない。この状況が1年以上続いてしまっていること自体異常である。そんな姉さんは、ボスに、だらしなくて休んでばかりなためにデータがない同期と同類として扱われている。それが全てを物語っている。

沼が広がっている。

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